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開高健「日本三文オペラ」の舞台 大阪砲兵工廠(こうしょう)跡 

おはようございます、まずは今日の一言!

明日は必ず来る。そして、明日は今日とは違う。ピーター・ドラッカー(経営学者)

【舞台はここに】開高健「日本三文オペラ」

 ■がむしゃらに鉄くず突進

 夕暮れ時、木々に囲まれた都会のオアシスで、一息つく。大阪城天守閣を抱く大阪城公園。散策路は観光客たちでにぎわう。

 少し北へ歩くと、大阪ビジネスパークの高層ビル。さらに西へ進むと、夕暮れの中に赤レンガの近代建築が姿を現した。旧・大阪砲兵工廠の化学分析場だ。

 〈…薄明のなかにひろがっていたのは魔窟(まくつ)の跡である。大阪市東区杉山町。ここには、もと、陸軍の砲兵工廠があった〉

 この一帯は、戦時中、広大な兵器製造工場だった。終戦後、そこに転がる大砲や戦車、鉄骨などの残骸に目を付けた泥棒集団がいた。夜になると廃虚から鉄くずを盗んで生活する「アパッチ族」と呼ばれた集団だ。

 開高健の代表作の一つ『日本三文オペラ』。生きるため、がむしゃらに鉄くずに突進する破天荒で無軌道な姿には、人間の悲哀とともに、生きることへのエネルギーがにじむ。

 ■廃虚で培った生きる力

 明治維新以降、大阪城一帯は日本陸軍の拠点となった。大阪砲兵工廠は明治3年に設置。少しずつ敷地を拡張し、東洋一の軍需工場となる。

 〈大阪の市民たちはこの三十五万坪のなかがどうなっているのか、まったく知ることができなかった〉

 大阪城天守閣の研究主幹、北川央(ひろし)さん(50)は「軍事機密ですからね。ただ、大阪造幣局とともに文明開化の象徴、という側面もあったんです」。ここで働いた人たちは技術を体得し、工業都市・大阪の先駆けとしての役割を果たすことになったという。

 しかし、昭和20年8月14日、空襲で施設のほとんどが破壊され、がれきの荒れ地となったまま、長く放置された。

 北川さんは「子供の頃に国鉄の森ノ宮駅から京橋駅間の電車の窓から見た異様ながれきの廃虚は忘れられませんね」と振り返る。

 物語は、その廃虚で繰り広げられる。膨大な鉄くずが残された広大な敷地を「鉱山」と呼び、鉄くずを運び出して売りさばくアパッチ族は、夜な夜な集まってきては忍び込み、綿密な組織力を駆使。警察とのすさまじい攻防戦もある。

 「日本三文オペラ」の舞台化に取り組む劇団「南河内万歳一座」座長の内藤裕敬さんは「何があってもめげずに生きる。それは、命に対する本能的なエネルギーなのでしょう」。

 〈物との闘争においても、法からの逃走においても、彼らは老獪(ろうかい)で精悍(せいかん)、悲惨で滑稽(こっけい)、そしてつねにあくことを知らず精力的であった〉

 名前も素性も国籍も分からない。アウトローに生きる彼ら。暴力やカネ、むきだしの欲望。「どん底の生活ですが、あっけらかんとその日その日を生きる姿が印象的です」と話す。

 その後、集団は崩壊し、アパッチ族たちは生活の糧を失う。

 ここでも内藤さんは「不思議なほど悲壮感がなく、『生きているだけで儲(もう)けもの』という強さがある。戦禍を生き残った感謝の気持ちがあるのかも」と話す。

 開高健自身も、アパッチ族の生きる力を身をもって感じたのだろう。

 作品が発刊される2年前の昭和32年、開高健は芥川賞を受賞し、脚光を浴びる。しかし、とたんにノイローゼに。書けない苦しみに悩まされ、故郷の大阪へと帰った。

 そこで出会ったのがアパッチ族。潜入し、時間をかけて取材し、次第に健康を取り戻していったという。

 強く生きる力と勇気、希望…。そんなメッセージが迫ってくる。(文・田野陽子)

【メモ】大阪砲兵工廠

 明治3年に創設された造兵司を前身とする国内最大級の軍需工場。大阪城の東と北側を中心に拡張された。昭和20年8月14日の空襲で破壊。跡地はその後、大阪ビジネスパークや大阪城公園などに整備され、敷地内には、大正時代の建築物、化学分析場や、重量物の搬出入に使った荷揚門などわずかな遺構がある。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120128-00000116-san-soci
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